魏志倭人伝
魏志倭人伝の一部

中国は近隣の国を諸国を評価する際の物差しとして、自国の文化がどの程度浸透しているかにより、野蛮か否かを判断していました。つまり、言語や習慣が異なる国は野蛮で、自国の文化を受け入れる国は友好国なのです。中華思想の根幹をなす論理です。
山くじら
茶番早合点 式亭三馬著の挿絵
山くじら

江戸時代の獣店(けだものだな):当初は食事療法から始まったと云われ、寛永20年の「福翁物語」によると、「長生きのしたき計りが苦と成りて、生老病死をかなしみ、四足の物を明暮と養生とは喰いけり」とあります。つまり長生きしたいが為に獣肉を養生食にしたのが始まりだと言えます。
かささぎ

鵲(かささぎ):スズメ目カラス科の鳥。全長約45センチメートル。腹・肩・翼の先が白く他は黒く、尾は長くて緑黒色。樹上に小枝で大きな丸い巣を作る。日本へは一六世紀末頃朝鮮から持ち込まれたとされ、筑紫平野で繁殖し、天然記念物に指定されている。[ goo辞書 ]
アイヌ族

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日本の肉食禁止の歴史
牛の埴輪
珍しい牛の埴輪 側面の穴は農機具を装着していた跡と考えられる
奈良県田原本町羽子田出土の牛形埴輪(6世紀) 笹鉾山古墳

「魏志倭人伝」には「其地無牛馬豹羊鵲」との記述があります。つまりこの時代には、日本にはまだ牛や馬はいなかったと考えられ、馬は牛よりも先に渡来したようです。
遺伝学的調査によると、日本の家畜馬は、朝鮮半島経由で渡来人によって運ばれたと考えられています。故に畜舎の「ウマヤ」はあっても、「ウシヤ」と呼ばれるものは聴いたことがありません。牛が初めて歴史に登場するのは大和時代の前期(4~7世紀)になってからで、平地で放牧された牛は、5世紀末には既に野を覆う程だったと云われています。

日本書紀

日本書紀

日本では天武天皇の治世(675年)に最初の肉食禁止の勅令が公布されています。「庚寅詔諸國曰 自今以後 制諸漁獵者 莫造檻 及施機槍等類 亦四月朔以後 九月三十日以前 莫置比滿沙伎理梁 且莫食牛 馬 犬 猿 鶏之肉 以外不在禁例 若有犯者罪之」と日本書紀にあります。
ここで注目したいのは、「亦四月朔以後 九月三十日以前」とあることで、毎年4月~9月までの農耕期間に限られていたことです。また、食用と狩猟が禁止されたのは、牛、馬、猿、犬、鶏で、鹿と猪(イノシシではなくブタ)はこれに含まれていません。
牛や馬は農耕や重い荷物の運搬には欠かすことが出来ず、鶏は神の使いとする神道に配慮したからと考えられます。また鹿は新芽を食べ、猪は夜間に農作物を掘り起こして食べてしまうし、共に農耕の妨げとなります。しかし、猿と犬が禁止された理由は何だったのでしょうか…因みに、中国や朝鮮と同じように日本でも犬は日頃から食べられていたようで、猿を食用にするのは中国だけでしょう。

肉食禁止の理由として度々上げられるのは、「涅槃経」の戒律に従ったと云う説で、「 ① 牛は農耕で重要な「田畑を耕す」働きをする ② 馬は移動や荷物の運搬に重宝する ③ 犬は夜に吠えることで危険を知らせる ④ 猿は人間に似ている ⑤ 鶏は朝、時を告げる 」ですが…肉食禁止令は、その後何度も繰り返し発令されていることを考えると、やはり一朝一夕では肉食の習慣は改まらなかったようです。
何事にも「本音と建前、表と裏」があります。民衆に食用が厳しく禁じられたのは獣肉ですが、職業的な狩猟や漁労は基本的に認めていましたし、海に棲む鯨も対象からは外されていましたので、狩猟や捕鯨で得られた肉は半ば公然と流通していたと思われます。
この肉食禁止令も時代とともに色あせ、彦根藩(滋賀県彦根市)では将軍家の太鼓の皮を献上する目的で、独占的に牛の屠殺が認められ、副産物の肉を加工し、食用や薬として利用し、将軍家にも味噌漬け牛肉を献上していました。これは井伊直弼が藩主になるまで続いています。 江戸末期の享保3年(1718年)には、江戸最初のももんじ屋が店を開き、半ば公然と商いを始めています。

捕鯨

このように日本では肉食が長い間禁止されていたこともあり、毛皮の必要性からの狩猟で、副産物として一部の人達の口に入った獣肉や鳥肉を除き、純粋に食用目的での狩猟は、アイヌのような一部の人々に限られていたようです。
更に、これは中国や朝鮮も同様ですが、日本でも搾乳した乳を飲んだり、加工したりする技術は発達しませんでした。他民族の直接的な影響を受けることが少なかった日本はともかく、肉食をその習慣とする元(モンゴル)の直接の支配下にあり、強い影響を受けた筈の中国や朝鮮でも、乳製品が発達しなかったのは何とも解せません。朝鮮半島では、飼育に必用な穀類の供給が充分でなかったという事情はありますが、中国までもが乳製品が発達しなかった理由は何だったのでしょうか。

福沢諭吉像    福翁自伝
1862年撮影に撮影された福沢諭吉と自叙伝「福翁自伝」 

福沢諭吉はその自叙伝「福翁自伝」で、安政4年(1857年)に「豚の頭を解剖してから煮て食べた」と書いていますし、安政5年(1858年)の日米修好通商条約の締結に伴い、伊豆の下田に屠殺場が設けられています。文久2年(1862年)には、横浜で最初の牛鍋屋が開店し、慶応3年(1867年)には東京(港区白金)で最初の屠殺場も作られています。正に激動の時代だったことが判ります。
日本では公に肉食が認められるまで、天武天皇の最初の勅令(675年)から、明治天皇の牛肉試食(1872年)に至るまで、実に1200年の年月を費やしています。



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