面白知識 なんじゃら
| JANUARY 28, 2005
22:41 by 權宰賢 (confetti@donga.com) |

その彼が打って変わった。朝鮮(チョソン)時代の浮世絵に描かれている食べ物を研究した内容を雑誌に連載してからだった。3年間連載したこの文を新たにまとめて本として出版した著者は、浮世絵の中にキムチが登場したことがないことに注目した。金弘道(キム・フンシン)、申潤福(シン・ユンボク)、金得臣(キム・ドクシン)などの有名画家と作者未詳の浮世絵の中には、コメ、餅、飴、牛乳、豆腐、いしもち、ぼら、プルコギ(焼肉)、麺類こそ登場していてもキムチは見当たらない。
著者の調査によると、キムチが韓国の代表的な食べ物として脚光をあびはじめたのは、近代性が本格的に台頭した1920年代からだ。著者は、ここでエドワードサイードの「オリエンタリズム」とエリックホムスボムの「作られた伝統」を組み合わせた仮説を示す。
キムチを韓国の代表的な食べ物と認識するようになったのは、もしかしたら西洋の目を借りてわれわれのものを見たオリエンタリズムの内面化が生んだものであるかもしれないという。また、近代化の流れの中で民族的な主体性を確保しなければならないという差し迫った気持ちがかもし出した「新しい伝統」ではないかという仮説だ。
とすれば、韓国人の代表的な食べ物は何だったのか。著者はコメに注目する。19世紀末西洋の宣教師たちは、東洋の大食家に朝鮮人を挙げるほど、われわれはコメご飯中心の食事をした。「お母さんは、ひざの上に子供をのせてご飯やその他の食べ物をさんざん子供の口に運び、満腹しているかどうかを確認するために時折おさじでお腹をたたいてみたりもした」という記録があるほどだ。
金得臣の絵「江上会飮」の中の漁師たちの食事場面にはご飯と一匹のぼらチム(煮詰めた料理)のみ登場する。ぼらチムのように塩辛くて辛いキムチもご飯をたくさん食べさせるおかずとして開発されたものだ。結局、ご飯がメインでキムチはつき物といった具合だが、今日ではキムチがメインでご飯は忘れられかけている。
朝鮮時代のコメは、単に食べ物のみではなかった。祖先を意味したり、人の命を象徴したりもした。 申潤福の「巫女神舞」では、グット(巫女の祈り儀式)の供物としてコメが登場する。おつまみと宴会に登場するインチョルミ(きな粉をまぶしたもち米の餅)などの餅で作ったものだ。祖先の法事にはご飯がメインになり、グットでは餅がそれに代わるものだった。
酒はまたどうなのか。著者は、 金弘道の「行旅風俗圖屛」で老いたトルピョンイ(ビン酒を売る女)が、街で売る酒を説明しながら、急な用のある人も腰を重く指せる「こしい酒」を紹介する。こしい酒は、24節季のうち一つである清明(チョンミョン・陽暦4月5日ころ)のときにかもす酒の別称だ。この清明酒で有名なのが平壤(ピョンヤン)のカムホンロ酒とハンサンのソクク酒、 洪川(ホンチョン)のぺク酒、 ヨサン(現在の益山・イクサン)のホサンチュン酒があるが、これらの酒はいずれももち米やうるちを主原料にする。
端午のとき、風変わりな味で愛されていた白飴も、もち米やうるちで水あめを作ってから、これを煮詰めて硬飴を作り、それにまた火を通して溶いてから伸ばして作ったものだ。
この本は、このように韓国の伝統飲食と信じ込まれていたものが、近代の産物であることをみせる。18世紀の救荒植物として普及したものとされるサツマイモが全国で栽培され始めたのは、日本の近代的な品種改良を通じてだった。朝鮮時代の麺類は大部分そばであり、小麦粉が大衆化されたのは1930年代末日本が戦争に打ち込むため、混食を奨励してからだった。
朝鮮後期の浮世絵23枚を通じて飲食史を扱ったこの本は、イメージの中で歴史を読み取る「ピックチャリング・ヒストリー(Picturing History)」という最近の歴史記述様式に合う。しかし、著者も指摘したように風俗画も当代の事実をそのまま反映したのではなく、当代の時代精神に合う現象のみを選んで表象化したものだ。すなわち、風俗画に抜けているもう一つの実在がありうるという説明だ。
この本の醍醐味は、われわれが伝統と思い込んできたのが実は近代に新しく作られたものであるかもしれないという挑発的な問題意識そのものにあるだろう。
● 【東亜日報より転載】
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2005012924658
現在世界中の国で多く使われているが、アメリカ大陸以外においては歴史的に新しい物である。クリストファー・コロンブスが1493年にスペインへ最初の唐辛子を持ち帰った。唐辛子の伝播は各地の食文化に大きな影響を与えた。
ヨーロッパでは、胡椒に代わる香辛料として広まる。16世紀にはインドにも伝来し、一般に「カレー」と呼ばれる多種の料理の香辛料として用いられるようになる。
日本への伝来は、1542年にポルトガル人宣教師が大友義鎮に献上したとの記録があるが諸説ある。日本では最初、食用とはせず、観賞用や毒薬として用いられた。唐辛子が南蛮胡椒と呼ばれていたのはこのためであるとされる。
一方、朝鮮から日本へ伝来したとする説もある。九州地方と朝鮮の間での貿易により伝わったとする説ではその後、朝鮮出兵で連れ帰った陶工が唐人とよばれ(福岡市には「唐人町」と言う街名がある)、彼らが栽培していたので「唐辛子」と呼ばれるようになったとしている。唐辛子が高麗胡椒と呼ばれていたのはこのためであるとされる。
日本から朝鮮へ伝来したとする説が有力である(出典不明)。一説には朝鮮出兵のとき武器(目潰しや毒薬)または血流増進作用による凍傷予防薬として日本からの兵(加藤清正?)が持ち込んだと言われている。また、江戸時代になって朝鮮通信使が日本から持ち帰ったという説もある。
「大和本草」(貝原益軒著)には蕃椒の記事に「昔は日本に無く、秀吉公の朝鮮伐の時、彼の国より種子を取り来る故に俗に高麗胡椒と云う」と書かれている。これは一見相反するが、日本に伝わった当初、国内にあまり広まらなかったまま、唐辛子が朝鮮にも伝来したためである、という説がある。なお、同時代に朝鮮では倭辛子と呼ばれていたが、これは日本から伝わったためであると考えられている。現在も日本から伝わったことが韓国では定
説になっている(出典不明)。
● 【ウィキペディア フリー百科事典より転載】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%BE%9B%E5%AD%90
ワサビの日本人と唐辛子の韓国人 呉 善花 祥伝社
◎ワサビと唐辛子の辛さの違い
ワサビを食べた時の血液は、とくに心臓のほうへかたよりをみせる
そのため、鎮静作用が働いて、精神的に落ち着きをもたらす。
唐辛子を食べた時、血液は頭部のほうにかたよりをみせる。
それが神経に刺激を与え、血液の循環をよくすると同時に精神的に興奮
しやすい作用を生み出す。
◎「イギョラ(勝て)」と「負けるな」の違い
韓国では「勝て」と応援するが、日本では「負けるな」と応援する
韓国の人から見ると「負けるな」は気の抜けた応援に感じる。
◎花ではなくつぼみを愛する感性
日本人の美意識は、「物事の完成された姿」よりは、「物事が生成する動き」を
感じさせる姿を好む。
満月の十五夜だけでなく、ちょっと欠けた「十六夜(いざよい)」の月も好む。
◎「もののあわれ」と「恨(ハン)」
日本人の心の中には、「生きるもののはかなさや弱さ」にふれて感動する
「もののあわれ」の情緒が脈打っている。
韓国人特有な情緒表現の代表は、「恨(ハン)」である。
恨は、人間ならば誰もが、生きる中で抱え込んでいくことになる「不完全さ」や
「欠如の感覚」がもとになっている。
お互いよく似た心情ではあるが、「恨」は弱さを否定し、「もののあわれ」は弱さを
肯定し抱え込む。
◎「為せば成る」と「成るようになる」
韓国では、「為せば成る」(やればできる)という言葉がよく使われる。
日本でもよく使われるが、日本ではその一方で、「成るようになる」という
思いも存在する。
韓国では、そんな他力本願的な言葉は使われない。
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□ たけみつの言いたい放題 □
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著者は、日本は「受身の文化」だと言います。
「女房が逃げた」のではなく、「女房に逃げられた」など、とにかく、受身的な
表現が多い...と
韓国では、「女房が逃げた」という直接的な表現しか使わないそうです。
これは、日本人が極端に対立することを嫌い、和を求める民族であるかららしいです。
それは、北方、南方から色んな人種がひとつの島国で交じり合った結果だと説明しています。
島国だから、大きな勢力に制圧されることもなかったから、うまく融合しようと和を求めたと....
韓国では、常に「中国」という脅威を背中に持っているので、常に自分を主張していないと、
自国のアイデンティティを失ってしまうため、より直接的なのだ....と
確かに日本は、「和と持って尊し」とする国です。
その分、自己主張が弱い面があると感じます。
グローバル社会の中では、もっと自己主張しないといけないと思います。
でも、その反面、日本人も良さというものを「ハッキリ」自覚して、それは、誇りに思い持ち続ける
ことが必要です。
日本の良さというものを、改めて教えて貰ったような気がします。
● 【無料メールマガジン「本から峠の向こうの日本をみよう!」から転載】
http://book.naniwatrad.com/2005/11/post_240.html